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風と草穂

九月一日の朝わたくしは旅程表やいろいろな報告を持ってきまった時間に役所に出ました。わたくしはみんなにも挨拶して廻り、所長が出て来るや否やその扉をノックしてはいって行きました。

「あ帰ったかね。どうだった。」所長は左手ではづれたカラーのぼたんをはめながら云ひました。「はい、お蔭で昨夜戻って参りました。これは報告でございます。集めた標本類は整理いたしましてから目録をつくって後ほど持って参ります。」「うん、さう急がないでもよろしい。」所長はカラーをはめてしまってしゃんとなりました。わたくしは礼をして室を出ました。そしてその日は一日来てゐた荷物をほどいたり机の上にたまってゐた書類を整理したりしてゐるうちにいつか夕方になってしまひました。わたくしもみんなのあとから役所を出て、いままでの通り公衆食堂で食事をして競馬場へ帰って来ました。するとやっぱりよほど疲れてゐたと見えてちょっと椅子へかけたと思ったらいつかもうとろとろ睡ってしまってゐました。その甘ったるい夕方の夢のなかでわたくしはまだあの茶いろななめらかな昆布の干されたイーハトーヴォの岩礁の間を小舟に乗って漕ぎまはってゐました。俄かに舟がぐらぐらゆれ何でも恐ろしくむかし風の竜が出てきてわたくしははねとばされて岩に投げつけられたと思って眼をさましました。誰かわたくしをゆすぶってゐたのです。

 わたくしは何べんも瞳を定めてその顔を見ました。それはファゼーロでした。「あっ、どうしたんだきみはずうっと前から居たのかい。」わたくしはびっくりして云ひました。「ぼくはね、八月の十日に帰ってきたよ。おまえはいままで居なかったぢゃないか。」「居なかったさ。海岸へ出張してゐたんだ。」「今夜ね、ぼくらの工場へ来ておくれ。」「きみらの工場? 何がどうしたんだ。全体きみはどこへ行ってたんだ。」「ぼくはねえ、センダードのまちの革を染める工場へはいってゐたよ。」「センダード。どうしてあんなとこまで行ったんだ。そして今夜またぼくにセンダードへ行けといふのかい。」「さうぢゃないよ。」「ではどうなんだ。第一どうしてあんなとこまで行ったんだ。」「ぼくどうしてもうちへはいれなかったんだ。そしてうちを通り越してもっと歩いて行った。すると夜が明けた。ぼくが困って座ってゐると革を買ふ人が通ってその車にぼくをのせてたべものをくれた。それからぼくはだんだん仕事を手伝ってたうたうセンダードへ行ったんだ。」「さうか。ほんたうにそれはよかったなあ。ぼくはまたきみがあの醋酸工場の釜の中へでも入れられて蒸し焼きにされたかと思ったんだ。」「ぼくはね、あっちで技師の助手をしたんだ。するとその人が何でも教へてくれた。薬もみんな教へてくれた。ぼくはもう革のことならなめすことでも色を着けることでもなんでもできるよ。」「そしてどうして帰ってきた。」「警察から探されたんだよ。けれどもそんなに叱られなかった。」「きみの主人は何と云った。」「もうどこへ行ってもいゝから勝手にしろって。」「そしてどうするの。」「年よりたちがねえ、ムラードの森の工場に居てぼくに革の仕事をしろといふんだ。」「できるかい。」「できるさ。それにミーロはハムを拵えれるからな。みんなでやるんだよ。」「姉さんは?」「姉さんも工場へ来るよ。」「さうかねえ。」「さあ行かう今夜も誰か来てゐるから。」

 わたくしは俄かに疲れを忘れて立ちあがりました。「ぢゃ行かう。だけど遠いかい。」「この前のポラーノの広場のちょっと向ふさ。」「少し遠いねえ。けれど行かう。」わたくしはすばやく旅行のときのまゝのなりをしていっしょにうちを出ました。ファゼーロはまた走りだしました。

 雲が黄ばんでけはしくひかりながら南から北へぐんぐん飛んで居りました。けれども野原はひっそりとして風もなくたゞいろいろの草が高い穂を出したり変にもつれたりしてゐるばかり夏のつめくさの花はみんな鳶いろに枯れてしまってその三つ葉さへ大へん小さく縮まってしまったやうに思はれました。

 そのときわたくしは二人の大きな鎌をもった百姓がわたくしどもの前を横ぎるやうに通って行くのを見ました。その二人もこっちをちらっと見たやうでしたがそれから何かはなし合ってとまってわたくしどもの行くのを待ってゐるやうすです。わたくしどもも急いで行きました。

「やあお前さん帰って来さしゃったね。まづご無事で結構でした。」

 一人がわたくしに挨拶しました。この前ポラーノの広場でデステゥパーゴに介添をしろと云はれて遁げた男のやうでした。

「えゝありがとう。ファゼーロももう帰って来てすっかりもとの通りですね。」

「山猫博士が居ませんや。」「山猫博士? デステゥパーゴ? デステゥパーゴにわたしはセンダードで会ひましたよ。大へんおちぶれて気の毒なくらゐだった。」「いゝえ、デステゥパーゴが落ちぶれるもんですか。大将センダードのまちにたくさん土地を持ってゐますよ。」「はてな、財産はみんなあの乾溜会社にかけてしまったと云ってゐたが。」「どうして、どうして、あの山猫がそんなことをするもんですか。会社の株がたゞみたいになったから大将遁げてしまったんです。」「いや、何か重役の人が醸造の方へかゝらうとして手続を欠いて責任を負ったとか云ってゐたが。」「どうしてどうして。酒をつくることなんかみんな大将の考なんですよ。」

「だって試験的にわづかつくっただけださうじゃないですか。」

「あなたはよっぽどうまくだまされておいでですよ。あの工場からアセトンだと云って樽詰めにして出したのはみんな立派な混成酒でさあ。悪いのには木精もまぜたんです。その密造なら二年もやってゐたんです。」「ぢゃポラーノの広場で使ったのもそれか。」「さうですとも。いや何と云っても大将はずるいもんですよ。みんなにも弱味があるから、まあこのまゝ泣寝入でさあ。たゞまああの工場をこんどはみんなでいろいろに使ってできるだけお互のいるものは拵えやうといふんです。」「さうかねえ。ファゼーロが何かするのかい。」「えゝ、まあ別に新らしい資本がかゝるわけでもなし革をなめしたりハムを拵えたり、栗を蒸して乾かしたり、そんなことをいろいろやらうといふんです。」

「さあもう行かう。」ファゼーロがわたくしをつっつきました。「それぢゃまた」「お休みなさい。」

 どうもデステゥパーゴの云ったのが本当かみんなの云ふのが本当かこれはどうもよくわからないとわたくしはあるきだしながらおもひました。

 わたくしどもはどんどん走りつゞけました。

「そらあすこに一つ、あかしがあるよ。」ファゼーロがちょっと立ちどまって右手の草の中を指さしました。そこの草穂のかげに小さな小さなつめくさの花が青白くさびしさうにぽっと咲いてゐました。

 俄かに風が向ふからどうっと吹いて来て、いちめんの暗い草穂は波だち、私のきもののすきまからはその冷たい風がからだ一杯に浸みこみました。

「ふう。秋になったねえ。」わたくしは大きく息をしました。ファゼーロがいつか上着は脱いでわきに持ちながら「途中のあかりはみんな消えたけれども......」おしまひ何と云ったか風がざぁっとやって来て声をもって行ってしまひました。

「まっすぐだよ、まっすぐだよ。わたくしはあれからもう何べんも来てわかってゐるから。」わたくしはファゼーロの近くへ行って風の中で聞えるやうに云ひました。ファゼーロはかすかにうなづいてまた走りだしました。夕暗のなかにその白いシャツばかりぼんやりゆれながら走りました。

 間もなくわたくしははるかな野原のはてに青じろい五つばかりのあかりとその上に青く傘のやうになってぼんやりひかってゐるこの前のはんのきを見ました。だんだん近づいて行くとその葉が風にもまれて次から次と湧いてゐるやう、枝と枝とがぶっつかり合ってじぶんから青白い光を出してゐるやうなのもわかるやうになりまたその下に五人ばかりの黒い影が魚をとったりするときつかふアセチレン燈をもって立ってゐるのも見ました。今日は広場にはテーブルも椅子も箱もありませんでした。たゞ一つのから箱があるきりでした。そのなかから見覚えのある大きな帽子円い肩 ミーロがこっちへ出て来ました。「たうたう来たな。今晩は、いゝお晩でございます。」

 ミーロはわたくしに挨拶しました。みんなも待ってゐたらしく口々に云ひました。わたくしどもはそのまゝ広場を通りこしてどんどん急ぎました。

 のはらはだんだん草があらくなってあちこちには黒い藪も風に鳴りたびたび柏の木か樺の木かがまっ黒にそらに立ってざわざわざわざわゆれてゐるのでした。そしていつか私どもは細いみちを一列にならんであるいてゐたのです。

「もうぢきだよ。」ファゼーロが一番前で高く叫びました。

 みちの両側はいつかすっかり林になってゐたのです。そして三十分ばかりだまって歩くとなにかぷうんと木屑のやうなものの匂がしてすぐ眼の前に灰いろの細長い屋根が見えました。

「誰か来てゐるな。」ファゼーロが叫びました。その大きな黒い建物の窓にちらちらあかりが射してゐるのです。

「おゝい。キューストさんが来たぞ。」ミーロが高く叫びました。

「おゝい。」中からも誰かゞ返事をしました。

 私どもはその建物の中へ入って行きました。

 そこに巨きな鉄の罐がスフヰンクスのやうにこっちに向いて置いてあって、土間には沢山の大きな素焼の壺が列んでゐました。

「いや今晩は。」ひとりのはだしの年老った人が土間で私に挨拶しました。

「これが乾燥罐だよ。」ファゼーロが云ひました。

「こゝで何人稼いでゐたって。」私はたづねました。

「さうねえ、盛んにもうかったときは三十人から居たらう。」ミーロが答へました。

「どうしてだめになったんだ。」

 みんなが顔を見合せました。さっきの年老った人が云ひました。

「薬のねだんが下ったためです。」

「さうですかねえ。そんなに間に合はないのかなあ。」

「ところが、ねえおい。ファゼーロ、おれはこの釜でやっぱり醋酸をつくった方がいゝと思ふ。あのときは会社だなんてあんまりみんなでやったから損になったんだけれどもおれたちだけでやるんなら、手間にはきっとなるからな。十瓶だって二十瓶だって引き受けると町の薬屋でも云ってくるからな。」

「さうだ。」ファゼーロが云ひました。「こゝの下へたいた煙をとなりの酒をつくったむろに通して、あすこでハムをつくるといゝな。」「それはサートもさう云ってるよ。とにかくこの罐へ入れてやれば、木炭はそっくりとれるしさ、ハムもすぐに売れなくたって仲間へだけは頒れるからな。」

「さあよしやらう。キューストはたびたび来て見てくれるだらう。」

「あゝぼくは畜産の方にも林産醸造の方にも友だちがあるからみんなさそって来てやるよ。ポラーノの広場のはなしをしてね。」

「さうだ、ぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれどもやっとのことでそれをさがすとそれは選挙につかう酒盛りだった。けれどもむかしのほんたうのポラーノの広場はまだどこかにあるやうな気がしてぼくは仕方ない。」

「だからぼくらはぼくらの手でこれからそれを拵えやうでないか。」「さうだ、あんな卑怯な、みっともないわざとじぶんをごまかすやうなそんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌へば、またそこで風を吸へばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いやうなさういふポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえやう。」「ぼくはきっとできるとおもふ。なぜならぼくらがそれをいまかんがへてゐるのだから。」

「さあよしやるぞ。ぼくはもう皮を十一枚あすこへ漬けて置いたし、一かま分の木はもうそこにできてゐる。こんやは新らしいポラーノの広場の開場式だ。」

「それでは酒〔さあけ〕を呑〔のう〕まずに水〔みづう〕を呑むぅとやるか。」その年よりが云ひました。

 みんなはどっとわらひました。

「よしやらう。表へ出て。おいミーロ、おれが水を汲んでくるから、きみは戸棚からコップをだせ。」

 ファゼーロはバケツをさげて外へ出て行きました。

 みんなはアセチレン燈をもって工場の外の芝生に出ました。

 みんなは草に円くなって座りました。

 ミーロはみんなにコップをわたしました。

 ファゼーロがバケツを重さうにさげて来て、
「さあコップを洗ふんだぜ。」と云ひながらみんなのコップにひしゃくで水をつぎました。私はその水のつめたいのにふるいあがるやうに思ひました。みんなはこちこち指でコップをあらひました。

「さあまた洗ふんだぜ。」ファゼーロが云ってまた水をつぎました。みんなは前の水を草にすてゝまた水でそゝぎました。

「もう一ぺん洗ふんだぜ。前の酒の匂がついてるからな。」ファゼーロがまた水をつぎました。

「ファゼーロ、今夜一ばんコップを洗ってゐるのかい。」

 醋酸をつくってゐたさっきの年老った人が、云ひました。みんなはまたどっと笑ひました。

「こんどは呑むんだ。冷たいぞ。」ファゼーロはまたみんなにつぎました。コップはつめたく白くひかり風に烈しく波だちました。

「さあ呑むぞ。一二三、」みんなはぐっと呑みました。私も呑んでがたっとふるえました。

「では僕がうたふぞ。ポラーノの広場のうた。

   つめくさのはなの 終る夜は
   ポランの広場の 秋まつり
   ポランの広場の 秋のまつり
   水をのまずに酒を呑む
   そんなやつらが威張ってゐると
   ポランの広場の 夜が明けぬ
   ポランの広場も 朝にならぬ。」

 みんなはパチパチ手を叩いてわらひました。その声もすぐ風がどうっと来てむかしのポラーノの広場の方へ持って行ってしまひました。

「おれもうたふぞ。」ミーロがたちました。

  「つめくさの花のしぼむ夜は
   ポランの広場の秋まつり
   ポランの広場の秋のまつり
   酒くせの悪い山猫は
   黄いろのシャツで遠くへ遁げて
   ポランの広場は 朝になる、
   ポランの広場は 夜が明ける。」

「さあぼくも歌ふぞ。〔以下原稿数行分空白〕

「さあ叫ばう。あたらしいポラーノの広場のために。ばんざーい。」わたくしは帽子を高くふって叫びました。

「ばんざぁい。」

 そして私たちはまっ黒な林を通りぬけてさっきの柏の疎林を通り古いポラーノの広場につきました。そこにはいつものはんのきが風にもまれるたびに青くひかってゐました。わたくしどもの影はアセチレンの灯に黒く長くみだれる草の波のなかに落ちてまるでわたくしどもは一人づつ巨きな川を行く汽船のやうな気がしました。

 いつものところへ来てわたくしどもは別れました。そこにほんの小さなつめくさのあかりが一つまたともってゐました。わたくしはそれを摘んでえりにはさみました。

「それではさよなら。また行きますよ。」ファゼーロは云ひながらみんなといっしょに帽子をふりました。みんなも何か叫んだやうでしたがそれはもう風にもって行かれてきこえませんでした。そしてわたくしもあるきみんなも向ふへ行ってその青い風のなかのアセチレンの火と黒い影がだんだん小さくなったのです。
         

          ※

 それからちゃうど七年たったのです。ファゼーロたちの組合ははじめはなかなかうまく行かなかったのでしたが、それでもどうにか面白く続けることができたのでした。私はそれからも何べんも遊びに行ったり相談のあるたびに友だちにきいたりしてそれから三年の后にはたうたうファゼーロたちは立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と醋酸とオートミルはモリーオの市やセンダードの市はもちろん広くどこへも出るやうになりました。そして私はその三年目仕事の都合でたうたうモリーオの市を去るやうになり、わたくしはそれから大学の副手にもなりましたし農事試験場の技手もしました。そして昨日この友だちのないにぎやかなながら荒さんだトキーオの市のはげしい輪転器の音のとなりの室でわたくしの受持ちになる五十行の欄になにかものめずらしい博物の出来事をうづめながら一通の郵便を受けとりました。

 それは一つの厚い紙へ刷ってみんなで手に持って歌へるやうにした楽譜でした。それには歌がついてゐました。

 ポラーノの広場のうた

   つめくさ灯ともす 夜のひろば
   むかしのラルゴを うたひかわし
   雲をもどよもし  夜風にわすれて
   とりいれまぢかに 年ようれぬ

   まさしきねがひに いさかふとも
   銀河のかなたに  ともにわらひ
   なべてのなやみを たきゞともしつゝ、
   はえある世界を  ともにつくらん

 わたくしはその譜はたしかにファゼーロがつくったのだとおもひました。

 なぜならそこにはいつもファゼーロが野原で口笛を吹いてゐたその調子がいっぱいにはいってゐたからです。けれどもその歌をつくったのはミーロかロザーロかそれとも誰かわたくしには見わけがつきませんでした。

これは個別記事ページです

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