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つめくさのあかり

それからちゃうど十日ばかりたって、夕方、わたくしが役所から帰って両手でカフスをはづしてゐましたら いきなりあのファゼーロが戸口から顔を出しました。そしてわたくしがまだびっくりしてゐるうちに「たうたう来たよ、今晩は」と云ひました。

「あゝ、先頃はありがたう。地図はちゃんと仕度しておいたよ。この前の音は今でもするの。」「するとも、昨夜なんかとてもひどいんだ。今夜はもうぼくどうしても探さうとおもって羊飼いのミーロと二人で出て来たんだ。」「うちの方は大丈夫かい。」

「うん、」ファゼーロは何だか少しあいまいに返事しました。「きみの旦那はなかなか恐い人だねえ、何て云ふんだ。」「テーモだよ。」「テーモ、やっぱし何だか聞いたやうな名だなあ。」「聞いたかも知れない。あちこち役所へ果物だの野菜だの納めてゐるんだから。」

「さうかねえ。とにかく地図はこれだよ。」わたくしは戸口に買って置いた地図をひろげました。「ミーロも呼んでもいゝかい。」「誰か来てるのか。いゝとも。」「ミーロ、おいで、地図を見やう。」すると山羊小屋の中からファゼーロよりも三つばかり年上のちゃんときゃはんをはいてぼろぼろになった青い皮の上着を着た顔いろのいゝわか者が出てきてわたくしにおじぎしました。「おや、ぼくは地図をよくわからないなあ、どっちが西だらう。」

「上の方が北だよ。さう置いてごらん。」ファゼーロはおもての景色と合せて地図を床に置きました。「そら、こっちが東でこっちが西さ。いまぼくらのいるのはこゝだよ。この円くなった競馬場のこゝのとこさ。」「乾溜工場はどれだらう。」ミーロが云ひました。

「乾溜工場って、この地図にはないね、こっちかしら。」わたくしは別のをひろげました。「ないなあ いつころからあるんだい。」「去年からだよ。」「それぢゃないんだ。この地図はもっと前に測量したんだから。その工場はどんなとこにあるの。」「ムラードの森のはづれだよ。」「あゝ、これかしら、何の木だい、楢か樺だらう。唐檜やサイプレスではないね。」「楢と樺だよ。あゝこれか。ぼくはねえ、どうも昨夜の音はこゝから聞えたと思ふんだ。」「行かう行かう、行って見やう。」ファゼーロはもう地図をもってはねあがりました。

「わたしも行っていゝかい。」「いゝともぼくさう云ひたくてゐたんだ。」「ぢゃわたしも行かう。ちょっと待って。」わたくしは大急ぎで仕度をしました。どうせ月は出るけれども地図が見えないといけないと思ってガラス凾のちゃうちんも持ちました。「さあ行かう。」わたくしはばたんと戸をしめてファゼーロとミーロのあとに立ちました。

 日はもう落ちて空は青く古い池のやうになってゐました。

 そこらの草もアカシヤの木も一日のなかでいちばん青く見えるときでした。

「ポラーノの広場へ行けば何があるって云ふの?」

 ミーロについて行きながらわたくしはファゼーロにたづねました。「オーケストラでもお酒でも何でもあるって。ぼくお酒なんか呑みたくはないけれどみんなを連れて行きたいんだよ。」「さうだって云ったねえ、わたくしも小さいときそんなこと聞いたよ。」「それに第一にね、そこへ行くと誰でも上手に歌へるやうになるって。」「さうさうさう云った。だけどそんなことがいまでもほんたうにあるかねえ。」「だって聞えるんだもの。ぼくは何もいらないけれども上手にうたいたいんだよ。ねえ。ミーロだってさうだらう。」「うん。」ミーロもうなづきました。元来ミーロなんかよほど歌がうまいのだらうとわたくしは思ひました。

 わたくしどもはもう競馬場のまん中を横載ってしまってまっすぐに野原へ行く小さなみちへかかってゐました。ふりかへってみるとわたくしの家がかなり小さく黄いろにひかってゐました。

「ぼくは小さいときはいつでもいまごろ、野原へ遊びに出た。」ファゼーロが云ひました。「さうかねえ、」「するとお母さんが行っておいで、ふくらふにだまされないやうにおしって云ふんだ。」「何て云ふって。」「お母さんがね、云っておいで、ふくらふにだまされないやうにおしって云ふんだよ。」「ふくらふに?」「うん、ふくらふにさ。それはね、僕もっと小さいとき、それはもうこんなに小さいときなんだ、野原に出たらう。すると遠くで、誰だか食べた、誰だか食べた、といふものがあったんだ。それがふくらふだったのよ。僕ばかな小さいときだから、ずんずん行ったんだ。そして林の中へはいってみちがわからなくなって泣いた。それからいつでもお母さんさう云ったんだ。」「お母さんはいまどこにいるの。」わたくしはこの前のことを思ひだしながらそっとたづねました。「居ない。」ファゼーロはかなしさうに云ひました。

「この前きみは姉さんがデステゥパーゴのとこへ行くかもしれないって云ったねえ。」

「うん、姉さんは行きたくないんだよ。だけど旦那が行けって云ふんだ。」「テーモがかい。」「うん、旦那は山猫博士がこわいんだからねえ。」「なぜ山猫博士って云ふんだ。」「ぼくよくわからない。ミーロは知ってるの?」「うん、」ミーロはこっちをふりむいて云ひました。「あいつは山猫を釣ってあるいて外国へ売る商売なんだって。」「山猫を? ぢゃ動物園の商売かい。」「動物園ぢゃないなあ。」ミーロもわからないといふふうにだまってしまひました。そのときはもう、あたりはとっぷりくらくなって西の地平線の上が古い池の水あかりのやうに青くひかるきりそこらの草も青黝くかはってゐました。

「おや、つめくさのあかりがついたよ。」ファゼーロが叫びました。

 なるほど向ふの黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのやうな白いつめくさの花があっちにもこっちにもならびそこらはむっとした蜂蜜のかほりでいっぱいでした。

「あのあかりはねえ、そばでよく見るとまるで小さな蛾の形の青じろいあかりの集りだよ。」

「さうかねえ、わたしはたった一つのあかしだと思ってゐた。」

「そら、ね、ごらん、さうだらう、それに番号がついてるんだよ。」

 わたしたちはしゃがんで花を見ました。なるほど一つ一つの花にはさう思えばさうといふやうな小さな茶いろの算用数字みたいなものが書いてありました。

「ミーロ、いくらだい。」

「一千二百五十六かな、いや一万七千五十八かなあ。」

「ぼくのは三千四百二十......六だよ。」

「そんなにはっきり書いてあるかねえ。」わたくしにはどうしてもそんなにはっきりは読むことができませんでした。けれども花のあかりはあっちにもこっちにももうそこらいっぱいでした。

「三千八百六十六、五千まで数へればいゝんだからポラーノの広場はもうぢきそこらな筈なんだけれども。」

「だってさっぱりきみらの云ふやうないゝ音はしないんぢゃないか。」「いまに聞えるよ。こいつは二千五百五十六だ。」「その数字を数えるといふのはきっとだめだよ。」

 たうたうわたくしは云ひました。「どうして?」ファゼーロもミーロもまっすぐに立ってわたくしを見てゐます。

「なぜって第一わたしは花にそんな数字が書いてあるのでなくてそれはこっちの目のまちがひだらうと思ふんだ。もしほんたうにいまにその音が聞えてきたらまっすぐにそっちに行くのがいちばんいゝだらうと思ふんだ。とにかくもっとさきへ行ってみやうぢゃないか。こゝらならわたしだって度々来てゐるんだから。ここらはまだあの岐れみちのまっ北ぐらゐにしかなってないんだ。ムラードの森なんか まだよっぽどあるだらう。ねえ、ミーロ君。」「よっぽどあるとも。」「ぢゃ、行かう、まあもっと行って花の番号を見てごらん。やっぱり二千とか三千とかだから。」

 ミーロはうなづいてあるきだしました。ファゼーロもだまってついて行きました。わたくしどもはじつにいっぱいに青じろいあかりをつけて向ふの方はまるで不思議な縞物のやうに幾条にも縞になった野原をだまってどんどんあるきました。その野原のはづれのまっ黒な地平線の上では、そらがだんだんにぶい鋼のいろに変っていくつかの小さな星もうかんできましたしそこらの空気もいよいよ甘くなりました。そのうち何だかわたくしどもの影が前の方へ落ちてゐるやうなのでうしろを振り向いて見ますと、おゝ、はるかなモリーオの市のぼぉっとにごった灯照りのなかから十六日の青い月が奇体に平べったくなって半分のぞいてゐるのです。わたくしどもは思はず声をあげました。ファゼーロはそっちへ挨拶するやうに両手をあげてはねあがりました。

 にはかにぼんやり青白い野原の向ふで何かセロかバスのやうな顫ひがしづかに起りました。

「そら、ね、そら。」ファゼーロがわたくしの手を叩きました。わたくしもまっすぐに立って耳をすましました。音はしづかにしづかに呟やくやうにふるえてゐます。けれどもいったいどっちの方か、わたくしは呆れてつっ立ってしまひました。もう南でも西でも北でもわたくしどもの来た方でもさう思って聞くと地面の中でも高くなったり低くなったりたのしさうにたのしさうにその音が鳴ってゐるのです。

 それはまた一つや二つではないやうでした。消えたりもつれたり一所になったり何とも云はれないのです。「まるで昔からのはなしの通りだねえ。わたしはもうわからなくなってしまった。」

「番号はこゝらもやっぱり二千三百ぐらゐだよ。」ファゼーロが月が出て一さう明るくなったつめくさの灯をしらべて云ひました。「番号なんかあてにならないよ。」わたくしも屈みました。そのときわたくしは一つの花のあかしからも一つの花へ移って行く黒い小さな蜂を見ました。「ああ、蜂が、ごらん、さっきからぶんぶんふるえてゐるのは、月が出たので蜂が働きだしたのだよ。ごらん、もう野原いっぱい蜂がゐるんだ。」これでわかったらうとわたくしは思ひましたがミーロもファゼーロもだまってしまってなかなか承知しませんでした。「ねえ蜂だらう。だからあんなに野原中どこから来るか知れなかったんだよ。」ミーロがやっと云ひました。

「さうでないよ。蜂ならぼくはずっと前から知ってゐるんだ。けれども昨夜はもっとはっきり人の笑い声などまで聞えたんだ。」「人の笑い声、太い声でかい。」「いゝや。」

「さうかねえ。」わたくしはまたわからなくなって腕を組んで立ちあがってしまひました。

 そのときでした。野原のずうっと西北の方でぼぉとたしかにトローンボーンかバスの音がきこえました。わたくしはきっとそっちを向きました。するとまた西の方でもきこえるのです。わたくしはおもはず身ぶるひしました。野原ぜんたいに誰か魔術でもかけてゐるかさうでなければ昔からの云ひ伝ひ通りひるには何もない野原のまんなかに不思議に楽しいポラーノの広場ができるのか、わたくしは却ってひるの間役所で標本に札をつけたり書類を所長のところへ持って行ったりしてゐたことが別の世界のことのやうに思はれてきました「やっぱり何かあるのかねえ。」「あるよ。だってまだこれどこでないんだもの。」「こんなに方角がわからないとすればやっぱり昔の伝説のやうにあかしの番号を読んで行かなければならないんだが、ぜんたい、いくらまで数えて行けばポラーノの広場に着くって?」「五千だよ。」「五千? ここはいくらと云ったねえ。」「三千ぐらゐだよ。」「ぢゃ、北へ行けば数がふえるか西へ行けばふえるかしらべて見やうか。」その時でした。

「ハッハッハッ。お前たちもポラーノの広場へ行きてえのか。」うしろで大きな声で笑ふものがゐました。

「何だい、山猫の馬車別当め。」ミーロが云ひました。

「三人で這ひまはって、あかりの数を数へてるんだな。はっはっはっ、」その足のまがった片眼の爺さんは上着のポケットに手を入れたまゝまた高くわらひました。

「数へてるさ、そんならぢいさんは知ってるかい。いまでもポラーノの広場はあるかい。」ファゼーロが訊きました。「あるさ。あるにはあるけれどもお前らのたづねてゐるやうな、這いつくばって花の数を数へて行くやうなそんなポラーノの広場はねえよ。」「そんならどんなんがあるんだい。」「もっといゝのがあるよ。」「どんなんだい。」「まあお前たちには用がなからうぜ。」ぢいさんはのどをくびっと鳴らしました。「ぢいさんはしじゅう行くかい。」「行かねえ訳でもねえよ、いゝとこだからなあ。」「ぢいさんは今夜は酔ってるねえ。」「あゝ上等の藁酒をやったからな。」ぢいさんはまたのどをくびっと鳴らしました。

「ぼくたちは行けないだらうかねえ。」「行けねえよ。あっいけねえ、たうたう悪魔にやられた。」ぢいさんは額を押へてよろよろしました。甲むしが飛んで来てぶっつかったやうすでした。ミーロが云ひました。「ぢいさん、ポラーノの広場の方角を教へてくれたら、おいらぁ、ぢいさんと悪魔の歌をうたってきかせるぜ。」「縁起でもねえ、まあもっと這ひまはって見ねえ。」ぢいさんはぶりぶり怒ってぐんぐんつめくさの上をわたって南の方へ行ってしまひました。

「ぢいさん。お待ちよ。また馬を冷しに連れてってやるからさ。」ファゼーロが叫びましたがぢいさんはどんどん行ってしまひました。ミーロはしばらくだまってゐましたがたうたうこらえきれないらしく「おいおれ歌ふからな」と云ひだしました。

 ファゼーロはそれどころではないやうすでしたが、わたくしは前からミーロは歌がうまいだらうと思ってゐたので手を叩きました。ミーロは上着やシャツの上のぼたんをはづして息をすこし吸ひました。

  「いのししむしゃのかぶとむし
   つきのあかりもつめくさの
   ともすあかりも眼に入らず
   めくらめっぽに飛んで来て
   山猫馬丁につきあたり
   あはてゝひょろひょろ
   落ちるをやっとふみとまり
   いそいでかぶとをしめなほし
   月のあかりもつめくさの
   ともすあかりも目に入らず
   飛んでもない方に飛んで行く。」

 ところがそのぢいさんの行った方から細い高い声で「ファゼーロ、ファゼーロ。」と呼んでゐるやうすです。

「あゝ、姉さん。いま行くよ。」ファゼーロがそっちへ向いて高く叫びました。向ふの声はやみました。

「だめだなあ、きっと旦那が呼んでるんだ。早く森まで行ってみればよかったねえ。」ミーロが俄かに勢がついて早口に云ひました。「大丈夫だよ。おれはね、どうもあの馬車別当だの町の乾物屋のおやじだのあやしいと思ってゐたんだ。このごろはいつでも酔ってゐるんだ。きっとあいつらがポラーノの広場を知ってるぜ。それにおれは野原でおかしな風に枯草を積んだ荷馬車に何べんもあってるんだ。ファゼーロ、お前ね、なんにも知らないふりして今夜はうちへ帰って寝ろ。おれきっと五六日のうちにポラーノの広場をさがすから。」「さうかい。ぼくにはよくわからないなあ。」そのときまた声がしました。「ファゼーロ、おいで。お使ひに町へ行くんだって。」「あゝいま行くよ。ぼくは旦那のとこへまっすぐに行くんだが、おまへはひとりで競馬場へ帰れるかい。」「帰れるとも、ここらはひるならたびたび来るとこなんだ。ぢゃ、地図はあげるよ。」「うん、ミーロへやってかう。ぼくひるは野原へ来るひまがないんだから。」そのとき向ふのつめくさの花と月のあかりのなかにうつくしい娘が立ってゐました。

 ファゼーロが云ひました。「姉さん、この人だよ。ぼく地図をもらったよ。」その娘はこっちへ出てこないでだまっておじぎをしました。わたくしもだまっておじぎをしました。

「ぢゃ、さよなら。早く行かなくちゃ」ファゼーロは走りだしました。

 ロザーロはもいちどわたくしどもに挨拶してそのあとから急いで行きました。ミーロはだまって北の方を向いて耳にたなごころをあててゐました。わたくしはポラーノの広場といふのはかういう場所をそのまゝ云ふのだ、馬車別当だのミーロだのまだ夢からさめないんだと思ひながら云ひました。「ミーロ、おまえの歌は上手だよ。わざわざポラーノの広場まで習ひに行かなくてもいゝや。ぢゃさよなら。」ミーロはていねいにおじぎをしました。わたくしはそしてそのうつくしい野原を胸いっぱいに蜂蜜のかほりを吸いながらわたくしの家の方へ帰ってきました。

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