五月のしまひの日曜でした。わたくしは賑やかな市の教会の鐘の音で眼をさましました。もう日はよほど登って、まはりはみんなきらきらしてゐました。時計を見るとちゃうど六時でした。わたくしはすぐチョッキだけ着て山羊を見に行きました。すると小屋のなかはしんとして藁が凹んでいるだけであのみぢかい角も白い髪も見えませんでした。「あんまりいゝ天気なもんだから大将ひとりででかけたな。」
わたくしは半分わらふやうに半分つぶやくやうにしながら、向ふの信号所から、いつも放して遊ばせる輪道の内側の野原、ポプラの中から顔を出してゐる市はづれの白い教会の塔までぐるっと見まはしました。けれどもどこにもあの白い頭もせなかも見えてゐませんでした。うまやを一まはりしてみましたがやっぱりどこにも居ませんでした。
「いったい山羊は馬だの犬のやうに前居たところや来る道をおぼえてゐて、そこへ戻ってゐるといふことがあるのかなあ。」わたくしはひとりで考へました。さあ、さう思ふと早くそれを知りたくてたまらなくなりました。けれども役所のなかとちがって競馬場には物知りの年とった書記も居なければそんなことを書いた辞書もそこらにありませんでしたから、わたくしは何といふことなしに輪道を半分通ってそれからこの前山羊が村の人に連れられて来た路をそのまゝ野原の方へあるきだしました。
そこらの畑では燕麦もライ麦ももう芽をだしてゐましたしこれから何か蒔くとこらしくあたらしく掘り起されてゐるところもありました。
そしていつかわたくしは町から西南の方の村へ行くみちへはいってしまってゐました。
向ふからは黒い着物に白いきれをかぶった百姓のおかみさんたちが、たくさん歩いてくるやうすなのです。わたくしは気がついてもう戻ってしまはうと思ひました。全くの起きたまゝチョッキだけ着て顔もあらはず帽子もかむらず山羊が居るかどうかもわからない広い畑のまんなかへ飛びだして来てゐるのです。けれどもそのときはもう戻るのも工合が悪くなってしまってゐました。向ふの人たちがぢき顔の見えるところまで来てゐるのです。わたくしは思ひ切って勢よく歩いて行っておじぎをして尋ねました。「こっちへ山羊が迷って来てゐませんでしたでせうか。」女の人たちはみんな立ちどまってしまひました。教会へ行くところらしくバイブルも持ってゐたのです。
「こっちへ山羊が一疋迷って来たんですが、ご覧になりませんでしたでせうか。」みんなは顔を見合せました。それから一人が答へました。
「さあ、わたくしどもはまっすぐに来ただけですから。」さうだ、山羊が迷って出たときに人のやうにみちを歩くのではないのだな。わたくしはおじぎをしました。「いや、ありがとうございました。」女たちは行ってしまひました。もう戻らう、けれどもいま戻るとあの女の人たちを通り越して行かなければならない、まあ散歩のつもりでもすこし行かう、けれどもさっぱりたよりのない散歩だなあ、わたくしはひとりでにがわらひしました。そのときまた向ふから廿五六になる若者と十七ばかりのこどもとスコープをかついでやって来ました。もう仕方ない、みかけだけにたづねて見やう、わたくしはまたおじぎしました。「山羊を一疋迷ってこっちへ来たのですがごらんになりませんでしたでせうか。」
「山羊ですって。いゝえ。連れてあるいて遁げたのですか。」
「いゝえ、小屋から遁げたんです。いや、ありがとうございました。」わたくしはおじぎをしてまたあるきだしました。するとそのこどもがうしろで云ひました。
「あゝ、向ふから誰か来るなあ。あれさうでないかなあ。」
わたくしはふりかへって指ざされた私の行くはうを見ました。
「ファゼーロだな、けれども山羊かなあ。」「山羊だよ。あゝきっとあれだ。ファゼーロがいまごろ山羊なんぞ連れてあるく筈ないんだから。」
たしかにそれは山羊でした。けれどもそれは別ので売りに町へ行くのかもしれない、まああの指導標のところまで行って見やう、わたくしはそっちへ近づいて行きました。一人の頬の赤い、チョッキだけ着た十七ばかりの子どもが何だかわたくしのらしい雌の山羊の首に帯皮をつけてはじを持ってわらひながらわたくしに近よって来ました。どうもわたくしのらしいけれども何と云はうと思ひながらわたくしは立ちどまりました。すると子どもも立ちどまってわたくしにおじぎしました。
「この山羊はおまへんだらう。」「さうらしいねえ。」「ぼく出てきたらたった一疋で迷ってゐたんだ。」「山羊もやっぱり犬のやうに一ぺんあるいた道をおぼえてゐるのかねえ。」「おぼえてるとも。ぢゃ。やるよ。」「あゝほんたうにありがとう。わたしはねえ、顔も洗はないで探しに来たんだ。」「そんなに遠くから来たの。」「あゝわたしは競馬場に居るからねえ。」「あすこから?」子どもは山羊の首から帯皮をとりながら畑の向ふでかげらふにぎらぎらゆれてゐるやっと青みがかったアカシヤの列を見ました。
「ずゐぶん遠くまで来たもんだねえ。」「あゝ、ぢゃ、僕こっちへ行くんだから。さよなら。」「あ、ちょっと待って。ぼくなにかあげたいんだけれどもなんにもなくてねえ。」「いゝや、ぼくなんにもいらないんだ。山羊を連れてくるのは面白かった。」「だけどねぇ、それではわたしが気が済まないんだよ。さうだ、あなたは鎖はいらないの。」わたくしは時計の鎖ならなくても済むと思ひながら銀の鎖をはづしました。「いゝや。」「磁石もついてゐるよ。」すると子どもは顔をぱっと熱らせましたがまたあたりまへになって「だめだ、磁石ぢゃ探せないから。」とぼんやり云ひました。
「磁石で探せないって?」私はびっくりしてたづねました。
「あゝ。」子どもは何か心もちのなかにかくしてゐたことを見られたといふやうに少しあわてました。「何を探すっていふの?」子どもはしばらくちゅうちょしてゐましたがたうたう思ひ切ったらしく云ひました。「ポラーノの広場。」「ポラーノの広場? はてな、聞いたことがあるやうだなあ。何だったらうねえ、ポラーノの広場。」「昔ばなしなんだけれどもこのごろまたあるんだ。」「あゝさうだ。わたしも小さいとき何べんも聞いた。野はらのまんなかの祭のあるとこだらう。あのつめくさの花の番号を数へて行くといふのだらう。」「あゝ、それは昔ばなしなんだ。けれども、どうもこの頃もあるらしいんだよ。」「どうして。」
「だってぼくたちが夜野原へ出てゐるとどこかでそんな音がするんだもの。」「音のする方へ行ったらいゝんでないか。」「みんなで何べんも行ったけれどもわからなくなるんだよ。」「だって、聞えるくらいならそんなに遠い筈はないねえ。」「いゝや、イーハトーヴォの野原は広いんだよ。霧のある日ならミーロだって迷うよ。」
「さうさねえ、だけど地図もあるからねえ。」「野原の地図ができてるの。」「あゝ、きっと四枚ぐらゐにまたがってるねえ。」「その地図で見ると路でも林でもみんなわかるの。」
「いくらか変ってゐるかもしれないがまあ大体はわかるだらう。ぢゃ、お礼にその地図を買って送ってあげやうか。」「うん、」子どもは顔を赤くして云ひました。「きみはファゼーロって云ふんだね。宛名をどう書いたらいゝかねえ。」「ぼく、ひまを見付けておまへんうちへ行くよ。」「ひまって今日でもいゝよ。」「ぼく仕事があるんだ。」「今日は日曜ぢゃないか。」「いゝえ、ぼくには日曜はないんだ。」「どうして。」「だって仕事をしなけぁ、」「仕事ってきみのかい。」「旦那んさ。みんなもう行って畦へはいってるんだ。小麦の草をとってゐるよ。」
「ぢゃきみは主人のとこに雇はれてゐるんだね。」「ああ、」「お父さんたちは。」「ない。」「兄さんか誰かは」「姉さんがいる。」「どこに、」「やっぱり旦那んとこに。」「さうかねえ、」「だけど姉さんは山猫博士のとこへ行くかも知れないよ。」「何だい。その山猫博士といふのは。」「あだ名なんだ。ほんたうはデステゥパーゴって云ふんだ。」
「デステゥパーゴ? ボー、ガント、デステゥパーゴかい。県の議員の」「えゝ。」「あいつは悪いやつだぜ。あいつのうちがこっちの方にあるのかい。」「ああぼくの旦那のうちから見え......」
「おい、ここら何をぐづぐづしてるんだ。」うしろで大きな声がしました。見ると一人の赤い帽子をかぶった年老りの頑丈さうな百姓が革むちをもって怒って立ってゐました。「もう一くぎりも働いたかと思って来て見るとまだこんなとこに立ってしゃべくってやがる。早く仕事へ行け。」
「はい、ぢゃさよなら。」「あゝさよなら。ぼくは役所からいつでも五時半には帰ってゐるからね。」「えゝ、」ファゼーロは水壺とホーをもって急いで向ふの路へはいって行きました。百姓はこんどはわたくしに云ひました。「あなたはどこのお方だか知らないが、これからわしの仕事にいらないお世話をして貰いたくないもんですな。」
「いや、わたしはね、山羊に遁げられてそれをたづねて来たらあの子どもさんが連れて来てゐたもんだからお礼を云ってゐたんです。」「いや、結構ですよ。山羊といふやつはどうも足があって歩くんでね。やいファゼーロ、かけて行け、馬鹿かけて行けったら。」百姓は顔をまっ赤にして手をあげて革むちをパチッと鳴らしました。「人を使うのに革むちを鳴らすなんて乱暴ぢゃないですか。」
百姓はわざと顔を前につき出して云ひました。「このむちですかい。あなたはこの鞭のことを仰ったんですか。この鞭はねえ、人を使ふ鞭ではありませんよ。馬を追ふ鞭ですよ。あっちへ馬が四疋も行ってますからねえ。そらねこんなふうに。」百姓はわたくしの顔の前でパチッパチッとはげしく鞭を鳴らしました。わたくしはさぁっと血が頭にのぼるのを感じました。けれどもまたいま争ふときでないと考へて山羊の方を見ました。山羊はあちこち草をたべながら向ふに行ってゐました。百姓はファゼーロの行った方へ行きわたくしも山羊の方へ歩きだしました。山羊に追いついてから、ふりかへって見ますと畑いちめん紺いろの地平線までにぎらぎらのかげらうで百姓の赤い頭巾もみんなごちゃごちゃにゆれてゐました。その向ふの一さう烈しいかげらふの中でピカッと白くひかる農具と黒い影法師のやうにあるいてゐる馬とファゼーロかそれともほかのこどもかしきりに手をふって馬をうごかしてゐるのをわたくしは見ました。